矢作川または矢矧川(やはぎがわ)は、長野県・岐阜県・愛知県を流れて三河湾に注ぐ河川。一級水系矢作川の本川。最上流部は「根羽川」とも呼ばれる。
矢作の名は、矢作橋の周辺にあった矢を作る部民のいた集落に由来している。矢に羽根を付けることを「矧(は)ぐ」と言ったことから「矢矧(やはぎ)」となり、後に矢作へ書き換えられた。伝承によれば、日本武尊が東夷征伐の際、川の中州にあった竹で矢を作り勝利したことから「矢作川」と呼ばれるようになったとされる(矢作神社も参照のこと)。
小惑星「(4941) Yahagi」は矢作川に因んで命名された。
地理
矢作川本川の源流は長野県下伊那郡根羽村と愛知県境付近の茶臼山北麓から流れる「小戸名川」であるが、水系全体の源流は支川・上村川上流の下伊那郡阿智村と平谷村の境にある大川入山西麓から流れる「柳川」であり、矢作川関連の資料では大川入山を源流としているものが多い。大川入山付近を境として北西側は木曽川水系、東側は天竜川水系へと分かれる。
幹線流路延長は117km、流域面積は1,830km2で、3県にまたがる8市4町2村に及ぶ。流域の平均年間降水量は山間部で約1,600から2,400mm、平野部で約1,400mm。地質は中生代(白亜紀)から新生代にかけて生成された花崗岩が広く分布しており、地表の風化した脆い花崗岩層が流出する典型的な砂河川となっている。
源流から奥矢作湖(矢作ダム)までの上流部では、愛知県豊田市と岐阜県恵那市の境付近の山岳地帯をおおむね西に流れ、上村川・名倉川・段戸川などと合流する。矢作ダムを過ぎると南西に流れを変え、勘八峡を過ぎると挙母盆地(豊田盆地)へと出る。明治用水頭首工を過ぎ最大支流の巴川が合流すると平野部に出るが、左右を洪積台地で挟まれた狭長な沖積平野が形成される程度であり広い扇状地はみられない。これには上流部の山地が脆い花崗岩質であるため砂は多いものの扇状地形成に影響する礫の流出は多くなく、少ないながらも流出した礫も挙母盆地で堆積して平野部までほとんど届かないことが要因として考えられる。
平野部では蛇行して流れるが、両岸にはかつて矢作川が乱流した当時の河道跡や自然堤防がみられる。岡崎市中心部で乙川が合流するとやや南西に流れを変え、矢作古川が分流すると西側の台地を横切るがこの区間は人工的に開削された河道であり、旧矢作川本流は矢作古川へと流れていた。台地を抜けると西尾市で三河湾へと注ぐまでが三角州地帯に相当するが、人工的に開削された矢作川本川の河口部には油ヶ淵付近を除いてほとんど三角州が形成されておらず、大部分は砂州や干拓地が広がっている。一方で旧本流である矢作古川や旧弓取川(後述)沿いには、河口部に広い三角州の形成がみられる。
歴史
矢作川および矢作川水系の下流域では、中世以降に数度の河川改修が行われている。記録にある最初の工事は1399年(応永6年)の支川・乙川に築かれた「六名堤(むつなつつみ)」であり、岡崎城築城(1452年~1455年)にあわせて堤防が築かれおおよその流れが固定されたとされる。この地域で比較的早くから大規模な河川改修が行われた背景として、三河国が室町幕府を開いた足利氏の第2の拠点であったことに加え、下流域が吉良氏など足利一門の所領であったために幕府としての工事が行いやすかった可能性が考えられる。
矢作川・矢作古川・弓取川
巴川合流点以下は矢作川の下流平野部にあたり、矢作川の両岸にはかつて乱流した矢作川による河道跡や自然堤防跡がみられる。矢作川本流はかつて広田川筋や鹿乗川筋を流れたと考えられるが、おおよそ現在の位置に移った後に前述のように築堤されたことで流路が固定されていたが、現在の矢作古川分岐点以下は江戸時代の1605年(慶長10年)に徳川家康の命を受けて水害対策を目的に開削された新川である。
新川開削以前の矢作川本流は矢作古川筋であったが、これも一部人工的に変更された流路である。矢作古川には支川の広田川が合流しているが、広田川が矢作古川に接近する地点以下の河道は元々広田川の河道であり、矢作古川本川はこの付近から西へと流れる後に「弓取川」と呼ばれる流路を流れていた。矢作古川と広田川は隣接して流れており、1645年(正保2年)に矢作古川は広田川筋へと付け替えられ、翌1646年(正保3年)に弓取川筋への分派口が締め切られたことで現在の形状となった。弓取川は締め切り後も下流域の新田に用水を供給するために残されるが、この用水を取水した川を意味する「井水取川」が「弓取川」の名称の由来であるとされる。
なお、矢作古川分岐点の形状も新川開削当時とはことなっており、かつての分岐部は現在よりもやや東側であり、安藤川の一部は当時の河道に相当する。
矢作川左岸
六名堤が築かれる以前の乙川の本流は、かつて矢作川氾濫の河道跡を通るように現在の岡崎市久後崎町付近から南に流れて占部川・広田川筋で三河湾へと流れていたが、室町時代に矢作川に合流するように付け替えられた。この河道変更には乙川跡を水田として開発すること、矢作川を利用した水運の向上に加えて、後に岡崎城が築かれる台地を要害とする目的があったと考えられる。
現在岡崎市上里付近で矢作川に合流する青木川は、江戸時代以前は現在の岡崎市百々町付近から南に流れ、伊賀川などと合流した後に乙川へと合流していた。青木川は正保年間(1644 - 1648年)に直接矢作川に合流するように付け替えられ、伊賀川は1912年(大正元年)の耕地整理で乙川合流部付近がやや東側に付け替えられた。
また、河口に近い須美川では広田川などの氾濫が左岸側(現在の西尾市吉良町)に流入していたが、1686年(貞享3年)に吉良義央によって左岸側に「黄金堤」が築かれた。
矢作川右岸
矢作川の新川開削から時代を経ると、河床上昇により右岸支川の鹿乗川では排水不良となった。この問題の解決のために、1686年(天保6年)から1687年(天保7年)にかけて合流点が2.5kmほど下流側に付け替えられた。また、1933年(昭和8年)には矢作川と鹿乗川の間に背割堤が築かれた。
主な支流
一級河川のみを下流側から順に記載する。
- それ以外の関連河川
- 毛呂川(けろがわ) - 乙川の支川。
- 大高味川(おおたかみがわ) - 乙川の支川。
流域の自治体
- 長野県
- 下伊那郡平谷村、根羽村
- 岐阜県
- 恵那市
- 愛知県
- 豊田市、岡崎市、安城市、西尾市、碧南市、北設楽郡設楽町、額田郡幸田町
主な橋梁
※ 下流より記載
事件・事故
2018年9月、同年7月・8月に矢作川水系で水難事故2件で3名の死者をだしたことを受け、過去10年で事故24件で死者25人をだしている、と国土交通省中部整備局が重大な水難事故が多発していると注意喚起した。
2020年3月、水難事故の多さから、無料のバーベキュー場を閉鎖。
矢作川の水難事故の多さについて、水難学会の斎藤秀俊は「おいでおいでする」(「おいで、おいで」現象)と表現し、海のような砂浜があり浅瀬が続き川に入りやすいが、突然深くなり砂地で踏ん張りが効かず砂が崩れ蟻地獄のようになりパニックに陥る、と指摘している。また、循環流も岸に戻ることが困難な理由にあげている。 矢作川は山から流れ落ちる急流で、岩場があり、増水の度に川底のあちこちが掘られて急な深みが出来ることも述べている(洗掘という)。
水難事故例
- 2017年8月、友人と川遊びに来ていた20代の男性が溺死。
- 2018年7月17日、豊田市近岡町地先の巴川で、アユ釣りに来ていた75歳男性が川に流され死亡。
- 2018年8月28日、豊田市池島町地先で、12歳男児が溺れ38歳の父親が助けようとしたが、親子ともに死亡。
- 2019年8月18日、同僚らとバーベキュー中に26歳の男性が川に入り流され、死亡。
- 2019年9月7日、豊田市池島町、矢作川の中流で、小学校1年生と6年生の女児が、溺死。過去に溺死者が発見された場所はだいたい同じ川底で、今回もそうであった。水難学者の斎藤秀俊は、小さな子が流され、助けようとした大きな子も流された「後追い沈水」が起きたと考えられると説明した。
- 2020年8月26年、ハンマー投げと円盤投げで2017年の全国高校総体(インターハイ)で優勝経験のある男子大学生が、豊田市で溺死。水難学者の斎藤秀俊は、体脂肪率が低く溺れやすい要因があったのではないかと指摘した。
- 2022年5月5日、豊田市で、バーベーキューの後、川で遊んでいた19歳の無職の男性が溺死。通報から2時間半後に現場から100m下流の川底で発見された。付近には、死亡事故多発を知らせる看板もあった。
- 2024年8月21日、豊田市藤沢町の矢作川にある阿摺ダム(あずりダム)をせき止めるように浮いている遺体を、ダム管理の作業者が発見し通報した。死んでから数日経過していると見られ、年齢や体格は分からないほど損傷が進んでいた。
脚注
関連項目
- 岡崎平野
- 矢作橋
- 矢作町 - かつて碧海郡にあった自治体。現在は岡崎市・安城市。
- 矢作神社
- 矢矧 (防護巡洋艦) - 帝国海軍の筑摩型防護巡洋艦の2番艦。1912年(明治45年)就役。
- 矢矧 (軽巡洋艦) - 帝国海軍の阿賀野型軽巡洋艦3番艦。1943年(昭和18年)就役。
- やはぎ (護衛艦) - 海上自衛隊のもがみ型護衛艦5番艦。2023年(令和4年)就役予定。
- 三河弁 - 岐阜県や長野県も含めた本河川の流域で話される(影響を及ぼしている)方言。
- 矢作川の戦い
- 上矢作町 - 岐阜県の流域にあった町。現・恵那市。
- 阿部夏丸
- 巴山
- 水難事故
外部リンク
- 豊橋河川事務所(国土交通省中部地方整備局)
- 『矢作川』 - コトバンク



