大西 善太郎(おおにし ぜんたろう、1857年11月26日(安政4年10月10日)- 1918年(大正7年)5月7日)は、明治から大正前期の農業指導者、実業家、政治家。衆議院議員、兵庫県有馬郡三輪村長、同郡道場村長。
経歴
摂津国有馬郡田中村(下田中村、兵庫県有馬郡三輪村下田中、三輪町、三田町を経て現三田市下田中)で、農業・大西利右衛門の息子として生まれる。普通学、和算学を修めた。農業を営む。
1880年(明治13年)有馬郡西組選挙郡農会員に就任。以後、全国米麦外三品共進会審査員、下田中村会議員、有馬郡連合会議員、摂津5郡連合農談会員、同会長、摂津5郡連合勧業会員、有馬郡連合町村会議員、同郡全町村勧業委員などを歴任。1890年(明治23年)2月、兵庫県会議員に当選したが辞退。1892年(明治25年)2月、兵庫県会議員に選出され、1896年(明治29年)10月まで在任した。故郷の三輪村長に就任し村内の紛争の解決に尽力。1901年(明治34年)3月、地元の要請を受けて道場村長に転じ、村税不納問題の解決に尽力した。
また、有馬郡内の鉄道敷設計画に参画。神鶴電気鉄道計画の発起人となる。1893年(明治26年)8月、阪鶴鉄道計画の願書が大阪府庁に提出され発起人に加わった。当初は株式の引き受けを断っていたが、その後、引き受けに同意した。
1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙に兵庫県郡部から無所属で立候補したが落選。1903年(明治36年)3月の第8回総選挙(兵庫県郡部、立憲政友会)に出馬し、阪鶴鉄道の開通に尽力したことが評価されて当選した。1904年(明治37年)3月の第9回総選挙(兵庫県郡部、立憲政友会)では、政友会からの強い支持を受けていなかったためか次点で落選し、衆議院議員に1期在任した。
また、農事改良に尽力し、有馬郡農事試験場長を務め、県内外の耕地整理事業の推進に尽くした。実業界では、道場銀行専務取締役などを務めた。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 田中重策篇『新撰衆議院議員列伝』日本現今人名辞典発行所、1903年。
- 『現代有馬郡人物史』三丹新報社、1917年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 有馬郡編『有馬郡誌 上』有馬郡誌編纂管理者、1929年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 『兵庫県人物事典 下巻』のじぎく文庫、1968年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『三田市史 第2巻 通史編Ⅱ』三田市、2012年。



