姚 国楨(よう こくてい、1883年 – 1942年)は、中華民国の官僚・政治家・教育者。字は幼枝。北京政府・安徽派の政治家で、交通行政部門で各職を歴任した。後年、冀東防共自治政府や中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)に参与している。弟の姚震も安徽派の政治家・司法官である。甥は中華人民共和国で国務院副総理をつとめた姚依林。
事績
北京政府時代
京師大学堂を卒業。清末は広西軍事公債局北京駐在代表をつとめた。
中華民国成立後の1912年(民国元年)7月20日、北京政府で交通部総務庁編製科科長に任命され、以後、交通部でほとんどの官歴を重ねることになる。1914年(民国3年)2月25日、交通部統計委員会副会長に就任し、1916年(民国5年)には交通部の電政・郵政・航政の各司で司長代理をつとめる。翌1917年(民国6年)、交通部で郵政総局局長や参事を歴任した。1919年(民国8年)12月3日、靳雲鵬内閣で交通部次長に任命され、統一鉄路会計会会長や交通銀行幇理、経理公債処処長なども兼任した 。
1920年(民国9年)7月26日、安直戦争で安徽派が敗退したため、姚国楨も交通部次長など各職を辞任する。直隷派の意向により大総統・徐世昌から逮捕令を発せられたため、朱深や弟の姚震らと共に日本公使館へ逃げ込んだ。1922年(民国11年)、姚震や呉光新らと天津に逃れ、反直隷派の活動に従事している。
第2次奉直戦争後に段祺瑞が復権すると、1924年(民国13年)11月12日に姚国楨は全国薬酒事務署督弁に任命された。翌1925年(民国14年)9月5日には、関税特別会議委員会委員となる。しかし1926年(民国15年)に段が再び失脚したため、姚は4月20日に各職を辞任して天津に逃げ込んだ。1927年(民国16年)2月29日、北京交通大学校長に任命され、同年中に政治討論会会員になった。
親日政権時代
国民政府時代において、姚国楨は基本的に天津に閑居していた(姚震は1935年死去)。冀東防共自治政府が成立すると、姚は顧問として起用されたという。
王克敏らが中華民国臨時政府を創立すると、姚国楨もこれに参与する。1938年(民国27年)4月8日、姚は振済部次長(総長:王揖唐)として起用された。ところが同年9月18日、臨時政府の行政改革により振済部は廃止されてしまう。振済部総長の王揖唐は内政部総長に転じたが、姚は他の地位に改任されることなく、そのまま下野した。
1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会が成立する。4月2日に姚国楨は国民政府中央で立法院立法委員に選出されたが、翌1941年(民国30年)4月17日に免ぜられている。華北政務委員会では、1941年1月21日に長蘆塩務管理局局長代理として任命され、3月7日には華北墾業股份有限公司董事長を兼任した。8月13日、華北河渠建設委員会委員も兼任している。
1942年、死去。享年60。
注
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 満蒙資料協会編『満洲紳士録 第三版』1940年。
- 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 12』創元社、1940年。
- 外務省情報部編『現代中華民国満洲帝国人名鑑 昭和十二年版』東亜同文会業務部、1937年。
- 満蒙資料協会編『満華職員録 第康徳九年版・民国三十一年版』満蒙資料協会、1941年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。




